諏訪神社の紹介

上州藤岡をお鎮めするお諏訪様

当社は「健御名方神(たけみなかたのかみ)」、「八坂刀売神(やさかとめのかみ)」を御祭神とする、
群馬県の南西部、藤岡市の神社であります。
上毛の三山を一望できる、諏訪神社の神山、前方後円の諏訪古墳上に社殿が建ちます。
古くから「お諏訪様」と呼ばれ、氏子九ヶ町の氏神として信仰されております。

 

歴史・由緒


およそ1100年前、上野国緑埜郡正四位椙山明神(※1)として、明神の荒魂と和魂をそれぞれにお鎮めし、上、下の2社としてお祀りされていました。
永享3年(1431年)、有田大舎人小属定景(※2)が常岡城(※3)に居城するにあたり、諏訪大社の上社・下社を勧請して、上社は男神、下社は女神として、2社を崇敬祭祀していました。
永禄9年(1566年)、芦田下野守信守(※4)が藤岡城(※5)に居城するにあたり、同年7月27日、信濃国一之宮諏訪大社の上社、下社から剣一口、鏡一面を請い受け、神霊として南山に上社、当社(現在の諏訪神社の場所)に下社を奉斉しました。
天正18年(1590年)、信守の孫、右衛門大夫康貞が居城するや、祖父の発祀せる上社、下社を以て牙城の守護となし、社殿を造営し祭田を寄進して別当(※6)をも定めました。
慶長5年(1600年)、芦田氏故あって藤岡城を廃されたが、郷民はなお崇敬し祭祀を継続しました。芦田氏奉斉依頼、御神威は四方に輝き、藤岡領すなわち、当所他17ヶ村の総鎮守として崇拝せられてきました。
しかし、明治初年の神社制度改正の砌、各町村に村社が置かれることとなり、当町を除く他の17ヶ村は氏子と称せず信徒として、祭礼には獅子舞や神楽舞等を奉納し、当社より各村毎戸に神符を頒布するを例としました。
明治の神社制度改正に倣い、上社は下社に合祀されました。
また、明治元年(1866年)~明治34年(1901年)12月迄、当社はその地域の名から、「高山神社」という社名(※7)でした。

※1上野国緑埜郡正四位椙山明神(こうづけのくにみどのぐんしょうしいはしらやまみょうじん)・・・上野国神名帳
※2有田大舎人小属定景(ありたおおとねびとしょうぞくさだかげ)・・・当時の豪族
※3常岡城(ときおかじょう)・・・平井城の支城、現在の庚申山運動公園の南端にあった、「常岡」は「藤岡」の旧名
※4芦田下野守信守(あしたしもつけのかみのぶもり)・・・1521~1575年、武田二十四将、芦田信経(芦田信常)の長男、信濃国芦田城主
※5藤岡城・・・現在の第一小学校の場所にあった
※6別当(べっとう)・・・祭祀を行う人、神職
※7高山神社という社名・・・山岡鉄舟が書いたとされる社額が拝殿にある

 

建造物と境内の紹介


本殿

嘉永2年、氏子一同の祈請により社殿改築の運びとなり、同年起工、翌3年6月本殿、幣殿、拝殿及び神楽殿が竣工せられました。入母屋造。

神楽殿

本殿とともに嘉永3年に改築された神楽殿。現在も歳旦祭や春季大祭には神楽奉納がなされます。

手水舎

安政4年、江戸の豪商三井八郎右衛門から水舎手洗石が奉納されました。

常夜灯

天保2年、三井越後屋から奉納された一対の石燈籠。中段には三井の紋が入ります。

社頭の狛虎(左)

陸軍大将内閣総理大臣(第26代)男爵田中義一、富美子(藤岡出身)夫妻が結婚記念に奉納され、当社では夫婦和合の象徴となっております。

社頭の狛虎(右)

社務所

御祈願、御朱印、お守りなどご希望の方は社務所までお声がけください。

高山社碑

養蚕改良高山社を創始した高山長五郎の生前の功徳を伝えるために明治24年に建てられた「高山長五郎功徳碑」と、高山長五郎亡き後、養蚕改良高山社の二代目社長として高山社の名声を高めた町田菊次郎の功労をたたえた「町田菊次郎頌徳碑」。

末社 八坂神社

末社の八坂神社。

末社 大國神社

末社の大國神社。

末社 天満宮

末社の天満宮。

末社 三峯社、神明社、阿夫利社、稲荷社

本殿の後方にある末社の三峯社、神明社、阿夫利社、稲荷社。

諏訪橋

社殿北側の池に架かる朱色の橋です。新婦様のお腹が大きくなるほど元気な子を授かることを願い、太鼓橋になっております。

さざれ石

さざれ石とは小さな石(細石)。
火山の噴火により石灰岩が分離集積し固まった岩で、学名は石灰質角礫岩です。国家「君が代」には「さざれ石の巌となりて苔のむすまで」とあります。
その意味は、「永い年月を経て細石が粘土や砂と混じり合い、大きな岩となって一面に苔が生えるように、天皇を仰ぐ我が国がいつまでも平和で栄えますように。」永遠の生命力と繁栄を象徴しています。
岐阜県揖斐川町春日 産出

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